ブログ
お盆に墓参りへ。ご先祖様に「ありがとう」を伝えてきました|徳島のすだちも楽しむ夏
お盆。
今年もご先祖様に会いに、お墓参りへ行ってきました。
普段なかなかゆっくり話すことができないご先祖様に、今年は少し時間をかけて、いろいろと話しかけてきました。
まずは、お墓をしっかりと掃除。
墓石をきれいに洗い、周りもきれいにして、気持ちよくお参りできるようにしました。
そして、手を合わせて、
「いつもありがとうございます」
と、ちゃんと声に出して伝えてきました。
何か特別なお願いをするというよりも、今こうして自分が生きていること、日々を過ごせていることへの感謝。
そして、これまで自分たちを支えてくれたご先祖様への「ありがとう」です。
ご先祖様の好きだったものもお供え
お墓には、故人が好きだったものもお供えしてきました。
こうしてお墓参りをすると、亡くなった方との思い出が自然と蘇ってきます。
「あれが好きだったな」
「こんなことがあったな」
そんなことを思い出しながら手を合わせる時間も、僕にとっては大切な時間です。
お盆は、先祖を思い、自分自身のルーツを振り返る時間でもあるのかもしれません。
徳島の名産「すだち」を購入
そして今回、徳島にも立ち寄って、すだちを購入してきました。
徳島のすだちは、料理との相性が本当に抜群です。
焼き魚にキュッと絞るだけで、脂の旨味を残しながら、さっぱりといただけます。
個人的には、夏の食卓には欠かせない存在です。
そして……
すだちは酎ハイに入れても最高です!
たっぷりすだちを使った酎ハイは、暑い日にぴったり。
爽やかな香りと酸味で、ついついもう一杯飲みたくなります。
もちろん、うどんや素麺に絞っても美味しい。
冷たい麺にすだちを加えるだけで、いつもの料理が一気に夏らしくなります。
夏も、もうすぐ終わり
気がつけば8月も後半。
まだまだ暑い日が続いていますが、夏は本当にあっという間に過ぎていきます。
お盆にお墓参りをして、ご先祖様に「ありがとう」を伝えた。
そして、徳島のすだちを買って帰ってきた。
こういう何気ない夏の一日も、後から振り返れば大切な思い出になるのかもしれません。
残り少ない夏。
焼き魚にすだち。
うどんや素麺にすだち。
そして、すだち酎ハイ。
せっかくの夏です。
まだまだ楽しみましょう!
加古川の「こだわり食材とうまい酒のお店 iami」でも、徳島県産すだちを使ったすだち酎ハイをご用意しています。
徳島のすだちをたっぷり使った、夏にぴったりの一杯です。
お近くにお越しの際は、ぜひ味わってみてください。
僕が尊敬するのは、「強い人」ではなく「折れない人」
僕には尊敬する人が何人かいます。
小野田寛郎少尉、山本五十六、山口多聞、三島由紀夫、石原慎太郎。
架空の人物では宮部久蔵。
漫画では『ONE PIECE』のDr.ヒルルク、ゾロ、サンジ。
一見すると軍人、作家、政治家、フィクションとバラバラですが、最近になって共通点があるように思えてきました。
僕が惹かれているのは、単純な「強さ」ではありません。格闘技の強さや権力の強さではなく、状況に左右されない芯の強さです。
たとえ貧しくても、評価されなくても、損をしても、「自分は自分だ」と言える人。世間の価値基準に流されず、自分の信念を簡単に手放さない人です。
同時に、そういう人はどこかで人への情も持っている。そこに惹かれます。
他人の評価に流されないということ
人はどうしても周囲の評価に影響されます。お金、成功、評判によって価値が決まるように感じてしまう。
僕自身も例外ではありません。だからこそ、そうした基準から距離を取り、自分の大切なものを守れる人に憧れます。
貧しくてもいい。理解されなくてもいい。古いと言われてもいい。
それでも、自分の価値観を金や評価と引き換えにしない生き方には、確かな格好良さがあります。
ゾロとサンジに見る「選んだ責任」
ゾロの魅力は剣の強さではなく、自分で選んだ道に責任を持つ姿勢にあります。船長を立て、仲間との約束を守り、必要なら命を懸ける。その選択を最後まで引き受けている。
サンジも同様に、自分のポリシーを持ち続ける人物です。ただし重要なのは「頑なさ」ではなく、信念を持ちながらも誤りは認める柔軟さです。
それでもなお、損得だけで簡単に自分を変えない姿勢に惹かれます。
ヒルルクの言葉と「残るもの」
Dr.ヒルルクの「人はいつ死ぬと思う?」という言葉は強く印象に残っています。
人は忘れられたときに死ぬ。しかし同時に、「引き継ぐものがいれば続いていく」という考え方があります。
人は必ず死にます。だからこそ問われるのは、何が残るのかです。お金や名前ではなく、考え方や生き方、誰かに与えた影響かもしれません。
メリー号が示すもの
ゴーイング・メリー号も同じです。ただの船が、思い出や時間を通して「物語」になる。
人もまた同じで、残した言葉や優しさ、約束は誰かに受け継がれていきます。
そうやって何かが続いていくことに意味があるのだと思います。
僕が本当に尊敬しているもの
こうして考えると、僕が尊敬しているのは単なる強さではありません。
自分の信念を安売りしないこと。
そして、その信念を持ちながら人への情を失わないこと。
たとえ評価されなくても、自分の中で「これでいい」と思える生き方を貫くこと。そして可能なら、その生き方が誰かに何かを残すこと。
僕自身はまだ迷いも多く、人の目やお金に揺れることもあります。それでも少しずつ、他人の評価ではなく自分の納得で生きたいと思っています。
そしていつか、自分がいなくなったあとに「そういう人だった」と誰かの記憶に残るものを少しでも残せたら、それで十分なのかもしれません。
人はいつ死ぬのか。
忘れられたときかもしれない。
それでも、何かが受け継がれていく限り、人は完全には消えない。
僕は、そんな生き方に惹かれます。
沖縄で見た不思議な夢。古いものを手放し、新しいものを抱えて進む
昨夜、とても印象に残る夢を見ました。
夢の舞台は沖縄。
民家なのか、民宿なのかは分かりませんが、そこで何人かの人たちと楽しく過ごしていました。
その中で、少し不思議な出来事が起こります。
ある部屋にいたとき、そこにいた「おばあ」が、2階か3階あたりから外を見て、小さな女の子を見つけました。
でも、周りにいる人たちには、その女の子が見えていない。
なぜか、そのおばあには見えている。
そして僕も、姿がはっきり見えるというより、「そこにいる」という気配を感じていました。
もしかすると、その女の子は、僕たちには見えない存在だったのかもしれません。
その後、僕はその女の子と一緒に行動するようになり、なぜかとても気に入られていました。
そして、その子と一緒に、あるおじいの部屋へ向かうことになります。
ところが、部屋に入る直前、その女の子が転びました。
僕は心配になって、その子を抱きかかえました。
そして、そのまま抱っこして、おじいの部屋へ入っていきました。
そこで、また大きな出来事が起こります。
おじいが転倒したのです。
しかも、ただ転んだだけではありません。
後頭部を強く打ってしまった。
僕は当然、
「救急車を呼ばないと」
と思いました。
ところが、周りにいた人たちは違いました。
治療をするのではなく、そのままおじいの最期を受け入れようとしている。
仲間たちは、おじいのそばにいて、最期を看取ろうとしていました。
最初は、
「なぜ救急車を呼ばないんだ?」
と思いました。
でも、その人たちの鬼気迫るような表情や、その行動に込められた意図を感じているうちに、
「これは、この人たちにとって間違いではないんだ」
と理解していきました。
そこには、僕が知らない風習や価値観がある。
そう感じました。
そして僕は、その場を離れました。
不思議な夢です。
目が覚めてからも、ずっと頭に残っていました。
この夢を自分なりに考えてみた
もちろん、夢占いが科学的に未来を予言するものだとは思っていません。
でも、夢というのは、自分でも普段は意識していない感情や考え方が、象徴的な形で出てくることがあります。
今回の夢を振り返っていて、僕が特に気になったのが、
「少女」と「おじい」
の存在でした。
僕には、この二人が対になっているように感じました。
おじいは、長い時間を生きてきた存在。
少女は、これからの時間を生きていく存在。
つまり、
過去と未来。
古いものと新しいもの。
そんな対比です。
しかも、二人とも「転倒」しています。
でも、その後の僕の行動は全く違いました。
少女が転んだとき、僕は心配して抱きかかえました。
一方、おじいが転んだときは、最初こそ救おうとしましたが、周囲の人たちの意思を理解し、最終的にはその場を離れました。
この違いが、とても印象に残っています。
すべてを救う必要はないのかもしれない
僕はこれまで、
「何とかしなければ」
と思うことが多かったように思います。
困っている人がいれば助けたい。
誰かが喜んでくれるなら、自分も頑張れる。
そんな気持ちは、今でも自分の大切な部分だと思っています。
でも今回の夢を見て、少し違うことを考えました。
すべてのものを救おうとする必要はないのかもしれない。
終わりを迎えているものを、無理に延命させることが、必ずしも正しいとは限らない。
もちろん、現実の事故なら救急車を呼ぶべきです。
これはあくまで夢の中の象徴としての話です。
夢の中の僕は、
「これは自分が介入して、無理に変えることではない」
と理解して、その場を離れました。
その一方で、まだ小さなものは抱きかかえた
ここが、今回の夢で僕が一番気になったところです。
おじいの最期を見届けた僕は、その場を去りました。
でも、その前に僕は、小さな少女を抱きかかえています。
まだ幼くて、自分だけではどうにもならない。
転んでしまった。
だから僕が抱き上げた。
もしかすると、この少女は、
まだ形になっていない未来や可能性
なのかもしれません。
まだ周りの人には見えていない。
でも、自分には何となく気配が分かる。
そして、たまたま出会ったその存在が、自分を気に入ってくれる。
それを守るために、自分が抱きかかえる。
もしそうだとしたら、とても面白い夢です。
古いものを捨てるのではなく、次のものを抱えて進む
最近、僕は新しいことを考えています。
これまで飲食店をやってきた経験。
人と関わってきた経験。
商売で悩んだ経験。
失敗した経験。
誰かに喜んでもらえた経験。
そういったものを土台にしながら、今までとは少し違う分野にも挑戦してみたいと思っています。
だからこそ、この夢が妙に心に残りました。
夢の中の僕は、
おじいの部屋を出て、少女を抱いたままその場を去っています。
過去を否定したわけではありません。
おじいの最期も、しっかりと見届けました。
でも、そこに留まり続けることもしなかった。
そして、小さな少女を抱えて次へ進んだ。
これは今の自分に対する、一つのメッセージなのかもしれない。
そんなふうに感じています。
「何を守り、何を手放すのか」
人生では、何でも大切にすればいいわけではないのかもしれません。
終わりを迎えたものに、いつまでも執着することもある。
逆に、まだ小さくて価値が分からないものを、
「そんなもの無理だよ」
と手放してしまうこともある。
だからこそ、
何を守るのか。
何を手放すのか。
そして、
何を抱えて次へ進むのか。
この選択が大切なのだと思います。
今回の夢が未来を予言しているとは思いません。
でも、自分の心の奥にあるものを見せてくれた夢だとしたら。
僕にとってのメッセージは、こんな言葉になるのかもしれません。
「すべてを救おうとしなくていい。
終わるものは見届ければいい。
そして、まだ小さな可能性が倒れたなら、自分の手で抱き上げればいい。
過去を否定する必要はない。
過去を見届けたうえで、次の場所へ進めばいい。」
目が覚めてからも、なぜかその少女のことが気になっています。
あの子はいったい、何だったんだろう。
そして僕は、これから何を抱えて、どこへ向かうんだろう。
そんなことを考えながら、今日も一日を始めようと思います。
誰かの喜びが、僕の原動力。
最近、ふと思うことがあります。
結局、僕は何のために頑張るんだろう。
お金をたくさん稼いで、裕福な暮らしがしたいのか。
家族を守るためなのか。
大きな家に住みたいのか。
高級車に乗りたいのか。
……たぶん、どれも違う。
僕の場合、根本にあるのは、
「誰かが喜んでくれること」
なんだと思います。
料理を作って、「美味しい」と言ってもらえる。
お店に来てくれた人が、楽しそうに話している。
「ここに来てよかった」と言ってもらえる。
誰かの役に立てた。
誰かの気持ちが少し明るくなった。
そういう瞬間が、僕にとっては大きな原動力になっています。
でも、お金のことをもっと学ばなければいけない
一方で、最近強く感じていることがあります。
僕は、もっとお金のことを知らなければいけない。
もっと、お金に対して貪欲になってもいいんじゃないか。
これまでの人生で、「死ぬほど苦労して、お金がない」という経験をしたことがありません。
だから、もしかすると僕は根本的なところで、お金の大切さを理解できていないのかもしれません。
お金がなければ、何もできない。
やりたいことがあっても、資金が必要。
誰かを喜ばせようと思っても、それを継続するにはお金が必要。
お店を続けることだってそうです。
新しいことに挑戦することもそう。
人を雇うことも、設備を整えることも、誰かを助けることも。
結局、何をするにもお金は必要です。
だから、
「お金なんてどうでもいい」
ではなく、
「自分がやりたいことを実現するために、お金をもっと大切にする」
という考え方に変えていかなければいけないんだと思います。
絵空事を、本気で叶えにいく
僕は、よく絵空事を言います。
「こうなったらいいな」
「こんなことをしてみたいな」
「こんなお店になったら面白いな」
「こんな人生を歩めたらいいな」
でも、思うだけでは何も変わりません。
必要なのは、
絵空事を、本気で叶えにいくこと。
そのためには、一歩前に進むしかない。
最近、いろんな出来事から、いろんなひらめきをもらいます。
スポーツ選手の人生を見ていてもそうです。
最初から「自分はプロになる」と明確に決まっていたわけではなくても、
たまたまその競技と出会い、
続ける環境があり、
何かを感じる瞬間があり、
節目節目で選択をして、
その選択の先に、プロという道があった。
他の職業だって、きっと同じなんでしょう。
振り返ってみれば、
「あの時の出来事があったから、今ここにいる」
ということが必ずある。
すべては、なるべくしてなっているのかもしれない
そう考えると、
人生で起こることには、ある種の必然性があるのかもしれません。
嬉しいことも。
失敗も。
遠回りも。
困難も。
一見すると「なんでこんなことが起こるんだ」と思うようなことも。
もしかすると、それらは全部、
本来の自分にたどり着くために必要な出来事なのかもしれない。
今の自分が「或る」のは、これまでの選択の積み重ねがあるから。
だったら、今ここにあるものを嘆くより、
ひとつひとつクリアしていけばいい。
「こうしたらいいよな」
「こうなったらいいな」
「これがやりたいな」
そう思ったのなら、
そのために一歩進む。
そして、また次の一歩を考える。
「踏み出せば、その一歩が道となる」
昔から好きな言葉があります。
この道を行けばどうなるものか
危ぶむなかれ、危ぶめば道は無し。
踏み出せばその一歩が道となり、
その一足が道となる。
迷わず行けよ。行けばわかるさ。
今の自分には、特にこの言葉が響きます。
正直、僕はこれまで、
「普通なら、そんな選択はしないだろう」
という選択を何度もしてきました。
もし、あの時に普通の道を選んでいたら。
今ごろ、もっと安定した、幸福な人生を送っていたのかもしれません。
そう思うこともあります。
でも、僕はそうしなかった。
だから今ここにいる。
だったら、
きっと、この道が僕の正規のルートなんでしょう。
正しかったのか、間違っていたのか。
それは、まだ分かりません。
でも、これから先の自分の生き方で、その答えを作っていけばいい。
ようやく、人生の岐路に立っている
最近、本当にそう感じています。
ようやく、人生の岐路に立っている。
そして、少しずつですが、
躍進する道に向かい始めている。
そんな感覚があります。
もちろん、不安はあります。
迷うこともあります。
周りと比べることもあります。
でも、もう少しだけ周りを気にするのをやめようと思います。
自分は自分。
自分の人生は、自分で歩くしかない。
誰かの喜びを原動力にしながら、
お金のこともしっかり学んで、
やりたいと思ったことを「いつか」ではなく、一つずつ形にしていく。
絵空事を、絵空事のまま終わらせない。
そのために、
今日も一歩。
明日も一歩。
その先に、まだ見たことのない自分がいるのだと思います。
迷わず行こう。
行けば、きっとわかる。
もうすぐお盆。お墓参りで感じる「今、生きていること」への感謝
もうすぐお盆ですね。
この時期になると、お墓参りをされる方も多いのではないでしょうか。
僕自身、以前は正直なところ、家族に「お墓参りに行くよ」と誘われるから行っていた、という感じでした。
「行くものだから行く」
それくらいの感覚だったと思います。
それが変わったのは、5~6年ほど前のことです。
ある知り合いから、お墓参りをすすめられたことがきっかけでした。
それからは、自分からお墓参りに行くようになりました。
多いときには月に1~2回。
少なくとも2か月に1回くらいは、母方のご先祖様のお墓へお参りしています。
片道2時間ほどかかります。
決して近い場所ではありません。
それでも、不思議と「行かなければ」と思うようになりました。
お墓参りをするたびに、感謝が深くなる
お墓に着いて、掃除をして、お花やお線香を供えて、手を合わせる。
特別なことをしているわけではありません。
でも、お参りをするたびに、ご先祖様への感謝が少しずつ深くなっているような感覚があります。
先月は、父方の祖父の永代供養をお願いしているお寺にもお参りに伺いました。
そして、家に帰ったときには、毎日仏壇にも手を合わせています。
皆さんは、御位牌の中を開けたことがありますか?
僕も以前は、あまり意識していませんでした。
でも、中には木の札が入っていて、そこにはご先祖様のお名前や、亡くなられた日などが書かれています。
それを見ると、ふと思うんです。
「この人たちがいたから、今の自分がいるんだな」と。
顔も知らないご先祖様もいます。
どんな人生を送ったのか分からない方もいます。
それでも、その一人でも欠けていたら、自分という存在は今ここにはいなかった。
そう考えると、なんだかとても感慨深い気持ちになります。
「科学的ではない」「非効率」と言われるかもしれない
お墓参りや仏壇へのお参りを、
「科学的ではない」
「何の意味があるの?」
「非効率的な行為だ」
そう考える人もいるかもしれません。
もちろん、考え方は人それぞれです。
僕も、お墓参りをすれば何か特別なご利益がある、という話をしたいわけではありません。
ただ、望む望まないにかかわらず、僕たちは先祖がいなければ生まれていません。
何代も何代も前から、誰かが生きて、食べて、働いて、家族をつくり、子どもを育てて、その命がつながってきた。
そのずっと先に、今の自分がいる。
そう考えると、「今、生きている」ということ自体が、ものすごく不思議なことに思えてきます。
「普通の毎日」は、実は普通ではない
もちろん、人生には楽しいこともあれば、苦しいこともあります。
思い通りにならないこともあります。
僕自身も、いろいろ悩むことがあります。
でも、少し視点を変えてみると、今の自分にはたくさんのものがあります。
家族がいる。
仕事がある。
支えてくれる人がいる。
友人や知人がいる。
今日食べるご飯がある。
眠る場所がある。
蛇口をひねれば水が出る。
電気があり、冷蔵庫があり、スマートフォンがあり、必要なものを買うこともできる。
そして、今の日本では戦争に巻き込まれることなく、こうして日常を送ることができています。
もちろん、社会にはいろいろな問題があります。
決して何もかもが完璧なわけではありません。
それでも、こうして普通に朝を迎え、ご飯を食べ、仕事をして、誰かと話をして、夜になれば眠る。
そんな「普通の一日」は、実はたくさんのものが重なってできている、とてもありがたいものなのだと思います。
今の暮らしは、先人たちから受け取ったもの
今の自分があるのは、ご先祖様のおかげだけではありません。
家族、友人、仕事で出会った人、お客様、地域の方々。
そして、これまで日本という国をつくり、守り、受け継いできたたくさんの先人たち。
さらに言えば、自分を取り巻くすべての生命や存在。
どれか一つが欠けていたら、今の自分の暮らしは存在していなかったかもしれません。
そう考えると、人生というものは、本当に奇跡の積み重ねなのだと思います。
だからこそ、感謝することは大切なのではないでしょうか。
「ありがとう」と思うだけでもいい。
誰かに直接伝えられるなら、伝えてみる。
そして、せめてお盆くらいは、お墓へ足を運んでみる。
お墓の前で、
「今、こんなことをしています」
「最近はこんなことがありました」
「ちょっとしんどいこともあります」
「でも、元気にやっています」
そんなふうに、今の自分のことを話してみるのもいいのではないでしょうか。
返事が返ってくるわけではありません。
何かが劇的に変わるわけでもありません。
それでも、手を合わせていると、自分自身の心が少し整っていくような気がします。
そして、
「今、自分がここにいること」
「今日も普通に暮らせていること」
そのことへの感謝を、改めて感じることができます。
もうすぐお盆。
今年は少しだけ時間をつくって、お墓参りに行ってみませんか?
ご先祖様に感謝することは、同時に、今を生きている自分の人生を大切にすることなのかもしれません。

