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2026-07-04 13:18:00

【第3回】20数年越しの決断。リスクを超えて掴んだ完治と、自分らしく生きる「今」

 

第2回の記事では、血中酸素濃度68%という命の危機を救ってくれた名古屋の恩師との出会い、そして「自分の気持ちを胸に秘めず、やりたいことをやる」という生き方の改革によって、苦しかった喘息を克服した話しをしました。

 

心と体の深い繋がりを知り、自分を大切に生きる一歩を踏み出した私には、どうしてもやり遂げたいことがありました。

 

それは、小学生の頃から20年以上も私の見た目と自信を奪い続けてきた、あの「木村氏病」を完治させること。

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今回は、リスクを覚悟で挑んだ治療の結末と、ほんの少し前よりも自信を手に入れた私が、自分の直感に従って現在の自営業へたどり着くまでの歩みをお話しします。

 

「充実した人生を」20数年ぶりの再会と、覚悟の放射線治療

 

喘息を克服してまもなく、私は20数年ぶりに、当時大学病院で私の主治医をしてくださっていた先生が新しく開かれたクリニックを訪ねました。

 

「完治させたいです」

 

私の強い想いを聞いた先生は、「今は、放射線治療が効果を上げていますよ」と提案してくださいました。

 

しかし、当時の私は医療の知識が浅く、「放射線治療=将来がんになるリスクが高くなるのではないか」という思い込みがあり、一度はその治療を断ってしまいました。せっかくここまで体調を戻したのに、新たなリスクを背負うのが怖かったのです。

 

それでも、自宅へ帰ってからも考えました。

 

「自分の人生を、これからは思いっきり楽しんでいきたい」

「もう二度と、後悔する生き方はしたくない」

 

首にある右頸部の腫瘍のせいで、人目が気になり、自信が持てず、積極的に行動できなかった20年間。あの頃に逆戻りするくらいなら、たとえ治療のリスクで将来命が短くなるようなことがあったとしても、今を100%充実させて生きられる可能性に賭けたい。

 

そう腹をくくった僕は、34歳のとき、思い切って放射線治療を受ける決断をしました。

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治療は1セット、合計15回の照射を行いました。

治療が終わったあと、しばらくの間は右の口の中や頸部が、物を飲み込むたびに激しく痛みました。食事を摂るのも一苦労という壮絶な痛みに襲われましたが、なんとか乗り越えました。

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そしてしばらく経った頃。鏡を見ると、あれほど長年私を悩ませていた右頸部の腫瘍が、外見上はほとんど分からないくらいに消え去っていたのです。

 

それから5年間、年に1度の定期検診に通い続けました。

その結果、先生から告げられたのは最高の言葉でした。

 

「再発もしていないし、がん化の心配もありません。一応、これで『完治』ということになります」

 

小学生の頃、「原因不明で完治は難しい」と言われたあの病気に、私は30代半ばにして、ついに完全な勝利を収めたのです。

 

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## 自分の直感に従う。飲食から介護、そして自営業の道へ

 

完治という切符を手に入れ、見た目のコンプレックスから解放された私は、人生で初めて「本物の自信」というものを手に入れました。

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「よし、自分の人生を生きよう」

 

早速、転職活動を始めました。当初は飲食業以外の世界へ行こうとも考えていましたが、当時はまだ「自分にできるのは10年やってきた飲食くらいだ」という思いもあり、大阪のもつ鍋店へと就職することになります。そこはとても良いお店で、新しい環境でやりがいを持って働いていました。

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しかしある日、僕の心の中に突然、全く予期せぬ想いが湧き上がってきたのです。

 

「介護の仕事がしたい」

 

それは突飛な思いつきに見えるかもしれません。しかし、名古屋の先生に言われた「やりたいことをやる」という教えが、僕の直感を鋭くしていました。私は自分の直感を信じ、すぐに求職サイトに登録。働きながら初任者研修の学校へ通い始めました。

 

無事に課程を修了したあと、自分の目で見て一番条件の良い施設への就職を決め、そこから介護の現場で3年間、懸命に勤め上げました。

 

今に繋がる学びと得たものもたくさんで苦しかった居酒屋での10年間。

人の人生や心に寄り添うことを学んだ介護での3年間。

 

一見、バラバラに見えるかもしれない私のこれまでのキャリアは、今振り返ると、現在の「自営業(自身のお店を開業したこと)」という舞台へ繋がるための、なくてはならない大切なピースだったのだと確信しています。

 

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最後に:今、生きづらさを抱えているあなたへ

 

小学生の頃の壮絶な闘病から始まり、大量のステロイド服用による肥満やアトピーの苦しみ、自信の持てなかった青春時代、そして命の危機を感じたハードワーク。

 

僕の前半生のストーリーは、お世辞にも順風満帆とは言えません。むしろ、人より多くの遠回りをしてきたと思います。

 

でも、だからこそ、今もし過去の私と同じように「自分を犠牲にして苦しんでいる人」や「病気やコンプレックスで自信を失っている人」がいたら、これだけは伝えたいのです。

 

「自分の本当の気持ちを置き去りにしないでください」

 

周りに迷惑をかけないように、嫌われないようにと、言いたいことを胸に秘めて自分をすり減らしていると、心だけでなく、いつか体が悲鳴を上げます。まずは自分自身を満たしてあげること。自分が健康で、自由で、やりたいことをやって生き生きとしていて初めて、周りの人を本当の意味で幸せにできるのです。

 

100万人に1人の病を乗り越えた私は今、自分で人生のハンドルを握り、毎日を心から充実して生きています。

 

長い物語をお読みいただき、本当にありがとうございました。私の経験が、ほんの少しでも誰かの一歩を踏み出す勇気になれば幸いです。

 

オーダーメイド旅行

2026-07-03 15:21:00

【第2回】血中酸素濃度65%の衝撃。名古屋の恩師が私に見抜いた「病気の正体」

 

前回の記事では、小学校3年生で発症した希少疾患「木村氏病」と20年以上向き合ってきたこと、そして社会人になってから限界を超えた激務の中で、手の爪を失い、慢性喘息によって命の危機を感じるまでになったことを書きました。

「このままでは、本当に死ぬかもしれない。」

そんな恐怖を抱えながら、私は必死にインターネットで情報を探しました。

そして、一人の先生にたどり着きます。

名古屋にある病院の専門医でした。

先生が書かれた本を読んだ瞬間、不思議なくらい心に確信が生まれました。

「この先生なら、きっと救ってくれるかもしれない。」

根拠はありませんでした。
でも、その直感だけを信じて、私は名古屋へ向かいました。

今回は、私の人生を大きく変えた、その先生との出会いについてお話しします。

 

「即入院レベルやけど、君はそうしないやろ?」

病院に着いて最初に測定したのが、血中酸素濃度でした。

結果は、68%。

通常、90%を下回るだけでも危険な状態といわれます。

68%という数字は、本来なら意識を失っていてもおかしくないほど深刻な状態だったそうです。

数値を見た先生は、私の顔を見て最初にこう言いました。

「即入院レベルやけど、君はそうしないやろ?」

その言葉に、正直、めっちゃ驚きました。

なぜなら、ほんまにその通りやったからです。

当時の私は、

「自分が休んだら仕事に穴を空けてしう。」

「周りに迷惑をかけたくない。」

そんなことしか考えられなくなっていました。

先生は、初対面にもかかわらず、私の性格を一瞬で見抜いいました。

そして、緊急処置が始まりました。

点滴を2本。
そこへ必要な薬剤を注入し、酸素吸入と鼻からの吸入を同時に行います。

少しずつ胸が楽になり、苦しくて吸えなかった空気が体の中へ入ってくる。

「あぁ、生き返る。」

そんな感覚を今でも覚えています。

 

「あなたは結局のところ、ヘタレちゃんや!」

処置が終わったあと、先生は1時間以上かけて、じっくり話を聞いてくださいました。

幼少期からの木村氏病との闘い。

自分に自信が持てなかったこと。

社会人になってからの働き方。

自分を押し殺して生きてきたこと。

私は、これまでの人生をすべて話しました。

静かに話を聞き終えた先生が、最後に私へ言った言葉があります。

それは、生涯忘れることのできない言葉でした。

「あなたは結局のところ、ヘタレちゃんや!その性格を直さない限り、病気は治らない。」

さらに続けて、

「薬による治療は、治療にはならない。対症療法にしかならない。本気で根本から治したいなら、その性格を変えなさい。」

私は言葉を失いました。

さらに先生はこう話してくださいました。

「胸の病気(喘息など)になる人には、胸の中に気持ちを溜め込む人が多い。言いたいことを言えず、自分を押し殺してしまう。そのままでは根本的には治らない。」

その言葉は、まるで僕の心の中を見透かされているようでした。

僕は「周りのため」と言いながら、本当は自分の気持ちをずっと我慢していました。

言いたいことも言えない。

やりたいことも後回し。

自分さえ我慢すればいい。

そう思い込んで生きてきていました。

その積み重ねが、体からの悲鳴として現れていた。

喘息も。

爪がなくなったことも。

病も気から。

その言葉の意味を身体を持って去りました。

 

毎週名古屋へ。そして、生き方を変える挑戦

診察を終え、その日は薬を受け取り、兵庫県高砂市の自宅まで車で帰りました。

それから私は、毎週の休みになるたびに三宮や大阪から高速バスに乗り、名古屋へ通う生活が始まりました。

治療を続ける一方で、先生に言われたもう一つの治療も始めました。

それは、

「生き方を変えること」でした。

これまで飲み込んできた言葉を、少しずつ口にする。

やりたいことは、てやってみる。

言いたいことは、相手を思いやりながらも我慢せず伝えてみる。

もちろん、簡単ではありませんでした。

何十年も続けてきた生き方です。

急に変えられるようなものではありません。

それでも、少しずつ。

本当に少しずつ、自分の本音で生きる練習を始めました。

そうやって意識して過ごしていると、あれほど苦しんでいた喘息が、みるみる改善していったのです。

夜中に息が苦しくて目が覚めることも徐々になくなりました。

薬の量も減っていきました。

気がつけば、以前と変わらないくらい元気な体を取り戻していました。

私はその時、確信しました。

心と体は、本当につながっている。

半年ほど通院を続けた頃には症状も落ち着き、私は名古屋の病院を卒業することができました。

 

人生を取り戻した先に見えたもの

通常時の健康な身体になった僕は、前よりも少し前向きになっていました。

「今の職場を卒業して、新しい人生を歩もう。」

そんな気持ちが湧いてきたのです。

そしてもう一つ。

小学校3年生から20年以上付き合ってきた木村氏病とも、今度こそ本当に決着をつけたい。

そんな強い想いが、静かに心の中で燃え始めていました。

次回はいよいよ最終回です。

20年以上付き合った木村氏病との本当の別れ。

そして、現在の僕が健康でいられる理由について、お話ししたいと思います。

(第3回【完治と現在編】へ続く)

 

バスのる

2026-07-02 14:54:00

【第1回】100万人に1人の病「木村氏病」と、20年以上、自分を抑えて生きてきた話

 

今日は、私が小学生の頃から30代半ばまで、20年以上付き合ってきた病気についてお話ししたいと思います。

病名は木村氏病(木村病)

当時は「100万人に1人」とも言われていた、原因不明のとても珍しい病気です。

腫瘍そのものは良性でしたが、この病気と治療の副作用は、私の外見だけでなく、生き方や考え方にまで大きな影響を与えました。

今では「あの経験があったから今の自分がある」と思えるようになりましたが、当時はそんなふうには到底思えませんでした。

 

すべては小学3年生から始まった

小学3年生の初夏。

右耳の後ろに、小さなしこりがあることに気付きました。

最初は近所の耳鼻科で診てもらいましたが、「耳下腺炎かな?」という診断。

薬を飲んでも良くならず、総合病院を紹介され、原因を調べるために組織を採る手術を受けることになりました。

人生で初めての全身麻酔です。

目が覚めた時は頭がフラフラ。

まるでバットを持って何十回も回った後のような感覚で、まともに歩くこともできませんでした。

子どもだった私は、その不思議な感覚を少し面白がっていたのを覚えています。

ただ、手術後に尿道カテーテルを抜く時は……まあまあ痛かったのを今でも覚えてます(笑)。

子どもながらに「痛いなぁ」と思ったことを、今でも鮮明に覚えています。

 

「木村氏病」という診断

その後、神戸大学病院の小児科(血液内科)を紹介され、ようやく病名が分かりました。

「木村氏病」。

先生からは、

「原因は分かっていません。」

「完治させる治療法もまだありません。」

「プレドニン(ステロイド)で腫瘍を小さくしながら付き合っていきましょう。」

そう説明を受けました。

そこから、薬との長い付き合いが始まりました。

 

病気よりつらかった副作用

一番多い時には、プレドニンを朝・昼・晩、それぞれ3錠。

毎日9錠飲んでいました。

ステロイドの副作用で体はどんどん太り、さらにアトピー性皮膚炎も悪化しました。

とにかく痒い。

我慢しようと思っても無理なんです。

夜中、寝ている間に無意識で掻きむしり、朝起きると布団も体も血だらけ。

そんな朝は一度や二度ではありませんでした。

首には腫瘍。

薬の副作用による体型の変化。

そしてアトピーで傷だらけの肌。

思春期から30代半ばまで、私は自分の外見にまったく自信が持てませんでした。

人の目が気になる。

前に出られない。

「どうせ自分なんて。」

そんな気持ちを心のどこかに抱えながら、自分を抑えて生きていました。

 

高校時代だけは、心から笑えた

そんな私にも、人生で一番楽しかった時期があります。

高校時代です。

運よく病気も落ち着いていて、体調も比較的安定していました。

そして、この頃に始めたアルバイトが、私の人生を変えてくれました。

職場の人たちは、病気も外見も関係なく、一人の仲間として接してくれました。

「自分も誰かの役に立てる。」

「ここにおってええんや。」

その喜びは、今でも忘れられません。

アルバイトが本当に楽しくて、学校も友達との時間も、毎日が充実していました。

私は私立高校に通わせてもらっていました。

だから、両親には感謝しかありませんでした。

「大学だけは国公立へ行こう。」

そう決めて国公立大学へ進学しました。

 

無理を重ね続けた10年間

大学生活は思うようにはいきませんでした。

体調や精神的な浮き沈みもあり、2年間休学。

結局、6年かけて卒業しました。

その後、2年間フリーター生活を送り、父から「そろそろちゃんと働け」と言われ、姫路の居酒屋へ就職しました。

この仕事は、今の私の土台になっています。

料理も接客も、人との関わり方も、ここでたくさん学ばせてもらいました。

ただ、その代償も決して小さくありませんでした。

約10年間、必死に働き続けました。

特に最後の3年間は、自分でも限界を超えていたと思います。

ストレスからなのか、手の爪がボロボロと剥がれ落ちていきました。

それでも休みませんでした。

「仕事に穴は空けられない。」

その一心でした。

さらに今度は慢性喘息を発症。

夜中、息が苦しくて目が覚める。

仕事中も呼吸が苦しい。

喉がヒューヒュー鳴る。

今振り返れば、救急車を呼んでもおかしくない状態だったと思います。

それでも私は、「周りに迷惑をかけたくない」と、自分で休日診療のある病院へ車を走らせ、その場をしのいでいました。

ある日、ふと思いました。

「このままじゃ、本当に死ぬかもしれない。」

その頃、治療するため完治させるため、必死になってインターネットで調べ始めました。

そして、一人の先生に出会います。

名古屋で喘息を専門に診ている先生でした。

先生の本を読んだ瞬間、不思議なくらい確信しました。

「この先生なら、自分を救ってくれる。」

そう思えたんです。

私は藁にもすがる思いで、名古屋へ向かう決意をしました。

この決断が、私の人生を大きく変える転換点になります。

(第2回「転換期編」へ続く)

 

ジゲンフェイスウォッシュ

2026-06-29 13:42:00

英語はわからない。でも、映画館は最高に面白かった。

高校2年生の海外研修。

モントレーで過ごした休日、ホストファミリーのアーネストが映画館へ連れて行ってくれました。

たぶん行った映画館は「Cinemark Century Monterey 13」だったと思います。

当時観た映画は、X-MENシリーズ。

ウルヴァリンが主人公の作品だったのを今でも覚えています。

もちろん字幕なんてありません。

日本語吹き替えもありません。

聞こえてくるのは、全部英語。

当然、何を言っているのか全く分かりません(笑)

ストーリーもほぼ理解できず、「なんとなく雰囲気」で観ていました。

でも、不思議とそれ以上に印象に残ったことがありました。

それは、映画館のお客さんの反応です。

日本なら静かに映画を観るのが当たり前。

笑いたくても少し我慢したり、周りを気にしたりしますよね。

でもアメリカでは全然違いました。

面白いシーンでは会場のあちこちから普通に笑い声が聞こえてきます。

手を叩いて大笑いしている人もいる。

驚く場面では

「Oh!」

「Oh my God!」

そんな声が自然と聞こえてくるんです。

映画を”静かに鑑賞する”というより、みんなで楽しむという感じ。

その空気がすごく新鮮でした。

「映画館って、こんな楽しみ方もあるんや。」

これもまた、大きなカルチャーショックでした。

そしてもう一つ驚いたのが、アメリカサイズ。

アーネストがポップコーンとコーラをご馳走してくれたのですが…

ポップコーンは紙のバケツに山盛り。

ドリンクも、日本のLサイズの2倍、いや2.5倍くらいありそうな大きさ。

「これ、一人で飲むん?」

と思わず笑ってしまうサイズでした。

しかも、ポップコーンが山盛りだから床には踏まれたポップコーンがあちこちに。

日本ではなかなか見ない光景で、これまたダイナミック。

「アメリカらしいなぁ。」

そんなことを思ったのを覚えています。

娯楽一つとっても、国が違えばこんなにも文化が違う。

日本には日本の良さがあります。

静かに作品に集中できる良さもあります。

でもアメリカのように、感情を素直に表現しながら映画を楽しむ空気も、とても素敵だと感じました。

どちらが正しいではなく、それぞれに魅力がある。

そんなことを17歳の僕は感じていたのかもしれません。

実は今日、久しぶりにモントレーのことを調べてみました。

YouTubeで街並みを見たり、ネットで写真を眺めたり。

フィッシャーマンズワーフやモントレー水族館の景色を見ていると、なんとも言えない懐かしい気持ちになりました。

水族館は建物の形こそ変わっていませんでしたが、外壁がきれいになっていたり、ロゴも少し変わっていたり。

「あぁ、ここ行ったな。」

そんな記憶が少しずつ蘇ってきました。

3年後、英語をもっと話せるようになって、もう一度アーネストたちに会いに行く予定です。

今度は映画のセリフも少しは分かるかな(笑)

17歳の僕が感じたカルチャーショックを、大人になった今、もう一度味わえる日が来るのを楽しみにしています。

 

オンライン英会話【アレバ】

2026-06-24 08:03:00

アメリカンサイズに驚いた日

アメリカンサイズにびっくり

高校時代の海外研修の続きです。

ある日、ホストファミリーのアーネストに、サンフランシスコに住む従兄弟のところへ連れて行ってもらいました。

どれくらいかかったかは覚えていませんが、そこそこ時間をかけて行った記憶があります。

その時に連れて行ってもらったのがピザ屋さん。

そんなに大きなお店ではなかったと思うのですが、とにかくピザが大きかったんです。

一切れが日本のSサイズのピザ一枚分くらい。

しかもピザ一枚がめちゃくちゃ大きい。

高校時代の机を二つ並べたくらいのサイズだったような気がします。

当時の僕は、

「こんなん食べきれるん?」

と思いました。

でも帰国の3日くらい前に遊園地へ行った時も同じようなサイズのピザが売られていました。

ドリンクも日本のLサイズ3個分くらいありそうな大きさ。

今思えば、そのピザ屋さんが特別だったわけではなく、それがアメリカでは普通だったんでしょうね。

まさにアメリカンサイズ。

食文化の違いを肌で感じた瞬間でした。

後に知ることになるのですが、さすがのアメリカ人もあのサイズを1日で食べるわけではなく、何日かに分けて食べるそうです。

それを聞いて少し安心しました(笑)

それでも、あのサイズ感を見たら、

「そりゃ太るよなぁ」

と思ってしまいます。

テレビなんかでアメリカの方を見ると、中年くらいになると体格の良い方も多いですが、何となく納得でした。

以前の記事にも書きましたが、アメリカの食文化は本当にダイナミックでした。

ただ、不思議と日本食が恋しくなることはありませんでした。

短い研修期間だったからかもしれません。

念のために持って行っていたパックご飯やインスタントみそ汁も使うことなく、確かホストファミリーに食べてもらった記憶があります。

みそ汁は結構好評でした。

やっぱり日本の食文化もすごいんだなと思いましたね。

あれから随分時間が経ちました。

Montereyも当時とは変わっていると思います。

だからこそ、今頑張っている英語学習を継続して、いつかもう一度Montereyを訪れたいと思っています。

次に行く時は高校生ではなく、おじさんになった僕ですが(笑)

当時お世話になったホストファミリーのみなさんと、また楽しく話ができたら嬉しいです。

 

 

北海道リゾートライナー

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