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定休日は、お店を休む日ではなく、整える日。
こんにちは。
加古川の「こだわり食材とうまい酒のお店 iami」店主です。
今日は定休日。
営業をしていない日は「お休みの日」と思われるかもしれませんが、僕にとっては、お店と自分を整える大切な一日です。
昨日は朝から思いつきで営業開始までの間に徳島県鳴門市へお墓参りに行ってきました。
祖父母や叔父に感謝を伝え、墓石を磨きながら、改めて「今こうしてお店を続けられているのは、多くの人のおかげなんやなぁ」と感じました。
行きと帰り道で自然の景色にも癒やされ、忙しい毎日の中で忘れがちな「立ち止まる時間」の大切さも感じました。
そして今日は、昔から祖父に連れて行ってもらって美味しかった思い出の味、ベンガル亭さんのカレーを食べようと思っていたのですが、残念ながら定休日(笑)。
「じゃあ映画でも観ようかな」と思い、気になっていた作品を観に行こうとしたり、そんな何気ない一日でした。
思い通りにいかないこともありましたが、それも含めていい休日だったなと思います。
こういう時間があるからこそ、新しい料理のアイデアが浮かんだり、「次はこんなサービスをしてみよう」と考えられたりします。
料理人は、料理を作る時間だけが仕事ではありません。
本を読んだり、人と会ったり、景色を眺めたり、美味しいものを食べたり…。
そんな一つひとつの経験が、お店づくりにつながっている気がします。
明日からまた、美味しいもつ鍋やランチ、そして「来てよかった」と思っていただける時間をお届けできるよう頑張ります。
加古川でゆっくり食事を楽しみたい日や、大切な人との時間を過ごしたい時は、ぜひ iami にお立ち寄りください。
皆さまのお越しを心よりお待ちしております。
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雨の日だからこそ感じられるもの。梅雨が教えてくれる大切な時間
梅雨の季節。
皆さんは雨は好きですか?
僕はあまり好きではありませんでした。
雨に濡れるのは嫌やし、傘を持つのも面倒くさい。
それに基本的に荷物を持つのは好きではありません(笑)。
最近特に感じます。
年齢を重ねるにつれて、不思議と雨の日が好きになってきてます。
雨が屋根を叩く音。
窓ガラスを流れる雨粒。
道路を走る車が水たまりを通る音。
歩く人、自転車が通る音。
同じ「雨の音」でも、それぞれ少しずつ違う。
ハイブリッド車が静かに走り抜ける音さえ、何だか癒されます。
そんな音を聞いていると、心が自然と落ち着いてくるんです。
街中でも。
海辺でも。
少し田舎のおしゃれなカフェでも。
ガラス越しに雨を眺めながら、自分だけの時間を過ごす。
何もしていないようで、心が少しずつ満たされていく感じ。
そんな贅沢な時間が好きです。
雨の日は商売人として少し寂しい日でもあります
飲食店を営んでいると、雨の日はどうしても客足が少なくなります。
「今日は静かやなぁ。」
そんな日も少なくありません。
もちろん、商売をしている以上、焦ることもあります。
「このままで大丈夫かな。」
「もっと頑張らんと。」
そんな不安や焦り、時には苛立ちを感じる日もあります。
でも最近は、こう思えるようになりました。
梅雨という季節は、自然が「少し休みなさい」「少し考える時間を持ちなさい」と教えてくれているのかもしれない、と。
外へ出にくい。
お客様の足も遠のきやすい。
だからこそ、自分自身と向き合う時間ができる。
普段なら流れてしまう考えが、少しずつ熟成されていく。
そんな感覚があります。
自然にはちゃんと意味がある
雨には雨の匂いがあります。
雨には雨の音があります。
自然にはちゃんと季節があり、人もそのリズムの中で生きています。
梅雨が終われば、夏。
暑さとともに、人も街も活気づいていきます。
だからこそ、その前に心を整える時間が必要なのかもしれないです。
自然はちゃんと、その準備期間を僕たちに与えてくれているんやなと。
そう思うと、雨の日も悪くないなぁと感じます。
ゆっくり話しながら食事をしませんか?
当店は、賑やかな日もありますが、雨の日はゆったりとした時間が流れます。
そんな日は、店主である私も少しだけ余裕があります。
仕事のこと。
家族のこと。
趣味のこと。
人生のこと。
どんな話でも大歓迎です。
もちろん、静かに一人で食事を楽しみたい方も大歓迎。
おひとり様でも気兼ねなく過ごせるお店を目指しています。
加古川でもつ鍋を囲みながら、お酒を飲みながら、季節を感じながら。
雨の日だからこそ味わえる時間があります。
焦らず、ゆっくり。
そんな時間を過ごしに、ぜひお立ち寄りください。
皆さまとお会いできることを楽しみにしております。
謙虚っていいことか?
謙虚って何だろう
こんにちは。
今日は「謙虚」について考えさせられることがありました。
僕はこれまで、「自分なんてまだまだ」「自分を信じてくれる人なんて、そんなにいないやろ」と思うことがよくありました。
自己肯定感が高い方ではないので、どこかで「俺なんかを信じる人なんておらんやろ」と決めつけていたのかもしれません。
でも、ふと考えました。
本当にそうなんやろうか。
真っ先に思い浮かんだのは両親でした。
特に母は、いつも僕を信じ、支え続けてくれています。
この文章を書いている今も、そのことを思うと自然と涙が出てきました。
僕は「謙虚でいること」が良いことだと思っていました。
もちろん、驕らないことは大切です。
でも、自分を必要以上に低く見たり、「どうせ自分なんて」と思い込んだりすることは、本当の謙虚さではないのかもしれません。
それは、自分を信じてくれている人の想いまで否定してしまうことになる。
そう考えると、それは謙虚ではなく、むしろ非礼なことなのだと気づきました。
誰かが「あなたならできる」と信じてくれている。
その信頼を受け取ることも、一つの責任なんだと思います。
だから今日からは、自分を大きく見せるのではなく、信じてくれている人の期待に応えられるように生きていきたい。
そして、信じてくれる人に応えられるように、楽しくいきられるようにしていきたいな。
そんな毎日を積み重ねていけたらと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
新しい刺激を追いかける僕が、結局「温故知新」に救われた話
こんにちは!
自他ともに認める「飽き性」な僕。
それは日々の料理でもまったく同じです。
常に「新しいもの」「珍しいもの」を追いかけたくて、テレビを観たり、動画をみたり、本や雑誌をみたり。
「次は何を作ろう?」
そう考えている時間が一番ワクワクします。
同じ料理を作るにしても、そのままじゃつまらない。
調味料をガラッと変えてみる
切り方や大きさを変えてみる
分量を変えたり、意外な具材を足してみる
そうやって自分なりの「実験」を繰り返して、新しい味に出会えたときの達成感や高揚感は、何物にも代えがたい楽しさがあります。
刺激を追いかける裏側で
でも、正直に告白すると、その「新しさへのこだわり」が、時にちょっとしたストレスになることもあるんです。
「何か新しいアイデアはないか……」と探しても、中々ピンとくるものが見つからないとき。
思いつきで足した具材が噛み合わず、納得のいく味が作れなかったとき。
「もっと先へ、もっと新しいものを」と走り続けることに、少し疲れてしまう瞬間があります。
迷ったときに、あえて「昔ながら」に触れてみる
そんなとき、ふと、昔からずっと変わらずにある定番の料理を、基本に忠実に、じっくり時間をかけて作ってみることがあります。
奇をてらわず、先人が遺してくれた通りの手順で。
すると、言葉を失うほどの「凄さ」に、改めて気づかされるんです。
「なぜ、このタイミングでこの調味料を入れるのか」
「なぜ、この切り方でなければならないのか」
そこには、何十年、何百年と積み重ねられてきた昔の人の知恵の深さが、これでもかと詰まっていました。削ぎ落とされたシンプルさの中に、完璧な正解がある。
まさに**「温故知新(おんこちしん)」**。
新しいものを生み出すためには、まず過去の知恵をリスペクトし、深く知ることが不可欠なんだと、身に染みて感じます。
何事も「本(もと)」が大事
アレンジや進化を楽しめるのは、揺るぎない「基本の型」がそこにあるからこそ。
何事も、やっぱり「本(もと)」が一番大切ですね。
最先端の刺激も楽しいけれど、たまには原点に戻って、先人の知恵にどっぷり浸かる。そんな時間があるからこそ、また新しい挑戦へのエネルギーが湧いてくる気がします。
皆さんも最近、自分の「原点」に触れる機会はありましたか?
「罰する」だけで犯罪は防げるのか?死刑制度の抑止力と、これからの社会にできること
凶悪な事件の報道を目にするたび、胸が締め付けられるような思いになります。「二度とこのような事件が起きてほしくない」「もっと厳しい罰を」と願うのは、社会として当然の感情です。
私自身、死刑制度については「存続派」の立場を取っていますが、同時に「厳罰化するだけで、本当にこれからの犯罪を防げるのだろうか?」という、言葉にできない割り切れなさも感じています。
かつて中世ヨーロッパでは、現代からは想像もつかないほど残酷な公開処刑が数多く行われていました。しかし歴史を振り返れば、それほどの恐怖をもってしても、犯罪を抑止できたわけではなかったようです。だからこそ歴史は、単に罰するだけでなく「犯罪者の再教育」という方向へと舵を切ってきた経緯があります。
実際、過去の重大事件を振り返ると、犯人が「どうせ自分の命が終わるなら、最後に大事件を起こしてやろう」といった、信じがたい自暴自棄な心理を裁判で口にしたケースもありました。自分の命すら投げ出している人間に対しては、どれほど重い刑罰を用意しても、抑止力として機能しなくなってしまうという、恐ろしいパラダイムシフトが起きているのです。
世論が感情的に厳罰化を求める気持ちは痛いほど分かります。しかし、歴史や犯罪心理の複雑さを見る限り、刑罰の重さだけで犯罪を抑止するのは限界があるのかもしれません。
幸いなことに、統計的に見れば日本の人口あたりの殺人発生件数は長期的に減少傾向にあります。現在の法制度や治安維持は、全体として一定の機能を発揮していると言えます。ですから、制度を根本からひっくり返すのではなく、基本の枠組みは維持しながら、時代の変化に合わせて「都度、柔軟にアップデートしていく」スタンスが現実的ではないでしょうか。
その上で、私たちが今、現実的なアプローチとして目を向けるべきは「現場の対処能力の強化」だと考えています。
例えば、危険な状況に直面した現場の警察官が、より迅速かつ安全に暴漢を制圧できるよう、テーザーガン(非致死性兵器)の導入を本格的に検討したり、拳銃の使用基準を時代に合わせて見直したりすることです。犯行に及ぼうとする人間を「事後の刑罰」で脅すのではなく、「その場(犯行中)で確実に、これ以上の被害を出さずに制圧する」という防衛力を高める方が、結果として多くの尊い命を守ることにつながるはずです。
人間社会の構造上、どれだけ対策を講じても「犯罪を完全にゼロにする」ことは不可能かもしれません。組織や集団のバランスを表す「2:6:2の法則」のように、どうしても一定の割合で社会のルールから逸脱してしまう存在は生まれてしまうのが現実です。
だからこそ、「ゼロにできないから諦める」のではなく、「どうすれば、悲しい事件を最小限に抑えられるか」を現実的に問い続ける必要があります。
法律や刑罰のあり方、現場を守るテクノロジーの導入、そして社会全体のつながり――。感情論に終始せず、多角的な視点から「より良い社会の維持」について、これからも考えていきたいと思います。

