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「自分が正しい」という罠。組織や人間関係のループを抜け出すための、もう一つの視点
「良かれと思って動いてるのに、なぜか周囲とうまくいかへん」
「自分が正しいと信じて進めてるのに、なぜか組織や関係がギクシャクしてしまう」
そんな風に、凄く歯痒い思いをしたこと、ありませんか?
「人の振り見て我が振り直せ」「反面教師」「人こそ人の鏡」……。
古くから伝わるこれらの言葉は、私たちが日々直面する人間関係の本質を、ほんまに驚くほど敵確に表してるなと感じます。
今回は、私たちがつい陥りがちな「自分が正しいと思いがち」な罠と、そこから一歩抜け出して成長するためのヒントについて考えてみたいと思います。
1. 理念が合う「内輪」で進めても、なぜか崩壊する理由
物事をスムーズに進めるために、理念や思想が合う個別のメンバーにアプローチしたり、気の合う「内輪」だけで動かそうとしたりすること、ありますよね。
確かに、最初はうまくいきます。スピード感も出ます。
でも、気づけば組織全体や、大切やったはずの家族・友人関係が崩壊の危機に瀕してる……なんてことも、実は珍しくないです。
なぜ、同じようなトラブルのループが起きてしまうのか?
理由はシンプル。
自分が正しい」と思い込んで、それを相手に強引に進めようとしてまうからです。
仮に一時的にうまくいったとしても、相手は自分の「完全なコピー人間」じゃないです。価値観のズレは絶対に生じます。自分が正しいという前提のままやと、いずれどこかで大きな衝突が生まれて、また同じループへと戻ってしまうんです。
2. 実は、周囲の人は「自分を映す鏡」
ここで一度、立ち止まって「我が振り」を直してみる必要があります。
・ 自分の進め方は強引すぎんかったか?
・ 相手に嫌な思いをさせへんかったか?
・どうやったら気持ちよく理解してもらえるやろう?
・自分が相手の立場やったら、どう思うやろう?
「類は友を呼ぶ」とも言うけど、実は自分の周りにある組織やコミュニティは自分自身を映し出す鏡やったりします。
気づけば周りには、考え方だけじゃなくて、性格や行動の指向、そして「自分が正しいと思う比率が高い人(=頑固な人)」ばかりが集まってたりしませんか?
相手の姿は、まさに自分自身の姿かもしれません。
そこから一歩抜け出して成長するために必要なこと。それこそが「客観的な視点を持つこと」。
3. 「配慮」と「英断」のバランス
とはいえ、客観的になりすぎて相手のことばかり考えてたら、今度は物事が一切前に進まなくなってまいますよね。これでは本末転倒です。
時には、たとえ嫌われようが、リーダーとして、一人の人間として「英断」を下すことも絶対に必要。
ただ、大切なのはそのプロセスの違いやと思います
・× 独断専行: 自分の正しさを押し付け、一人で決めて突っ走る
・〇 話し合いを経た英断: 事前にしっかりと議論を尽くし、互いの意見を交わした上で、最終的な決断を下す
しっかりとした話し合いのプロセスを経ていれば、たとえ結論が相手の望むものではなかったとしても、「そこまで話し合った上での決定なら」と、多少なりとも理解してもらえと思います。
4. 最後は「相手の課題」として見守る
もし、徹底的に議論を重ねて、プロセスを踏んで英断を下したにもかかわらず、なお大きな不満を抱いて反発してる人がいたとしたら……。
それは厳しいけど、「相手の成長がまだ足りない」ということなのかもしれません。
そこから先はもうあなたの課題ではなく、相手の課題です。彼ら彼女らがいつか自ら気づき、成長していく姿を、信じて静かに見守ることも、時には必要です。
おわりに
周囲の人間関係に悩んだときは、まずは「人こそ人の鏡」という言葉を思い出して、自分の客観的な姿を振り返ってみること。
そして、独りよがりではない「対話」を重ねた上で、ブレずに英断を下していくこと。
このバランスを意識するだけで、いつも同じところで引っかかっていた人間関係のループから、きっと抜け出せるはずやと思います。私自身だけでなく、みなさんとその周りの環境が、より心地よく、共に成長できる場所に変わっていくことを願っています。
英語学習、始めました
最近、英語学習を始めました。
今はアプリを中心に勉強していますが、これからはAIもうまく活用しながら、無理なく継続していきたいと思っています。
目標は、海外旅行で困らないこと。そして、日常会話ができるようになることです。
3年以内に「英語で普通に会話できる」と言えるレベルを目指して頑張っていこうと思います。
実は今までにも何度か英語を勉強しようと挑戦してきました。
中学生の教科書を引っ張り出したり、参考書を買ったり、単語帳やDUO 2.0を買ったこともあります。
でも、なかなか集中力が続かず、途中でやめてしまうことがほとんどでした。
海外留学のようなことも考えたことはあります。
ただ、金銭的な問題もありますし、海外へ一人で行く勇気もなかなか出ませんでした。
それでも最近思うのは、少しでも英語が話せるようになれば、不安は確実に減るだろうということです。
言葉が分かるだけで、海外への心理的なハードルはかなり下がる気がしています。
そして、ある程度話せるようになったら、テレビ電話などを利用して海外の方と実際に会話してみたいと思っています。
実践を重ねて、自信をつけていきたいですね。
現在の自分のレベルを正直に言うと、単語は昔勉強したものが多少記憶に残っています。
リスニングやリーディングも、なんとなく意味が分かることは意外とあります。
ただ、文法とスピーキングはやはり難しい。
頭の中では分かっていても、実際に言葉として出てこないんですよね。
まあ、レベルで言えば中学1年生くらいだと思います(笑)。
それでも、今は昔と違って便利な時代です。
スマホアプリもありますし、AIという強力な学習相手もいます。
焦らず、でも継続しながら、一歩ずつ前に進んでいこうと思います。
3年後にこの記事を読み返した時、「あの時始めて良かった」と思えるように。
そんな気持ちで、今日も少しだけ英語に触れてみます。
【気づき】言い訳を捨て、覚悟を決める――セミナーで向き合った「経営者としての自分」
昨日、今日の午前中、セミナーに参加してきました。
そこでガツンと胸に刺さり、自分自身を深く見つめ直すきっかけをいただいたので、忘れないうちに言葉にしておこうと思います。
自分を変革できる人と、できない人の差
セミナーの中で特に印象に残ったのが、「自分を変革できるかどうか」という話でした。
何か新しいチャンスや、変わるべきタイミングが来たとき、
「今は時間がないから」「お金がないから」「タイミングが悪いから」
そうやって何かしらの理由をつけて行動を起こさない人は、いつまで経っても変革できません。
チャンスは、いつまでもそこにあるわけではない。
時を逃すと、二度と掴めないんです。
本当に変化できる人は、時間がなかろうが、お金がなかろうが、自分の心が「これだ」と感じたことを素直に受け入れて、その瞬間に動ける人。
まずは「決断してやる。」すべての始まりはここなんだと、改めて強く感じました。
「相手を変える」のではなく、「自分を変える」
また、人間関係や組織のあり方についても深い学びがありました。
誰かに対して「あの人が悪い」「なんでなん」と思ってしまう瞬間は、誰にでもあると思います。
でも、そんな時こそ「自分を変える」チャンス。
「相手が悪い」と思ったとき、実は自分も同じようなことをしていないか?
もし自分が相手の立場だったらどうだろう?
そうやって一歩引いて、相手の立場になって考えてみると、見えてくる景色がガラリと変わります。自分の至らなさに気づかされたり、逆に「ありがたいな」と感謝の気持ちが湧いてきて、心が洗われるような感覚になります。
将来、組織を率いる経営者としての「非情さ」と覚悟
そして、経営者として最も身につまされたのが、「時には非情にならなければいけない時がある」という現実です。
私はどうしても、なんだかんだと相手のことを想うあまり、非情になりきれず、甘い決断をしてしまいがちなところがあります。
ですが、追い詰められたときに逃げて、中途半端に優しい(甘い)決断をすることは、最終的に相手のためにも、会社のためにも、そして自分のためにもならない。
今はまだ私と母との家族経営ですが、将来的に規模が大きくなり、従業員を抱え、その家族の生活も背負っていくようになったとき、この「甘さ」は命取りになります。
そして何より、お店を信頼して利用してくださる大切なお客様のためにも、万が一の時に「なくなると困る人」がどれだけいるかを考えなければなりません。
そこまで見据えて、いざという時に逃げずに覚悟を持って決断できるか。
未来の自分のためにも、厳しい現実から絶対に逃げない強さを持とうと、胸に深く刻みました。
あえて選ばれる存在へ
商売の本質は、「数ある選択肢の中から、お客様があえて自分を選んでくれるかどうか」。
そんな価値ある存在になれているか、そんな誇れる仕事ができているか。
これからさらに成長し、目指す規模へと歩んでいくからこそ、しっかりとこの意識を研ぎ澄まし、覚悟を決めて、これからも一歩一歩がんばっていきます!
自己評価が低すぎる私が気づいた、「謙遜のしすぎは最高の無礼」という話。
おはようございます。
突然ですが、みなさんは自分に「自信」を持てていますか?
私はというと、なかなか自分に自信が持てず、つい自己評価を低く見積もってしまう癖があります。
何か新しいことに挑戦しようとする時も、やる前から「やっぱり無理やな……」と考えてしまったり。でも、心の中のどこかで「まぁ、いけるやろ」と、少しだけ自信がある時もあるんです。
それなのに、なぜ「無理かもしれん」と口に出したり思ったりしてしまうのか。
よくよく考えてみると、それはダメだった時に自分を慰めるため、あるいは言い訳を作るための防衛本能だったのかもしれません。
嬉しいはずの褒め言葉を、素直に受け取れない
ありがたいことに、周りの人が自分の行動や成果を評価してくれることがあります。
褒められるのは、本当はすごく嬉しいはず。
それやのに、心のどこかで、
「いや、これは社交辞令やろな?」
と勝手にネガティブな想像をして、ブレーキをかけてしまう自分がいました。
「僕なんか、ぜんぜんですよ。」
マナーとしての謙遜は、確かに多少は必要かもしれません。でも、ふと思ったんです。
「謙遜のしすぎって、かえって相手に対してすごく失礼なんちゃうかな?」と。
「自己評価の低さ」は、相手への無礼かもしれない
相手の方は、私を評価してくれる時、ある種の「自信」を持って声をかけてくれているはずです。私の良いところを見つけ、認めて、わざわざ言葉にして伝えてくれている。
それなのに、こちらが勝手に自己評価を下げて「そんなことないです」と拒絶してしまうのは、見方を変えれば「あなたには見る目がありませんね」と言っているのと同じになってしまうのではないでしょうか。
「なんて無礼な奴なんや、自分は……」と、ハッとさせられました。
そんな風に人の好意や評価を無下に扱う人のことを、また応援したい、また引き立てたいなんて、普通は思わないですよね。
そして何より、それは「自分自身」に対してもすごく失礼なことでした。
「お前、頑張ってるやん!」と、自分の中で自分を評価してくれている声を、自ら否定してしまっていたのですから。
自信は、持っている方に賭けたい
自己肯定感が高すぎて自惚れてしまうのも考えものですが、低すぎるのもやっぱり問題です。
どちらが良いかと聞かれれば、自信は持っていた方がいいに決まっています。
例えば仕事の場面でも、どちらに任せたいかは一目瞭然です。
「自分なんかまだまだ自信がなくて……」と不安そうな人
「任せてください!」と自信に溢れている人
圧倒的に後者の方が、「この人なら大丈夫だろう」と安心して任せられますよね。自信は、自分を信じる力であると同時に、相手を安心させる材料でもあるのです。
今日から始める、小さなイメージトレーニング
というわけで、私は今日から、少しずつでも「自信を持つ努力」をしていこうと思います。
まずは、上手くいっている自分を想像するイメージトレーニングから。
やる前から「無理」と言い訳を用意するのをやめて、前向きに過ごしていく工夫をしていきます。
もし、周りの人があなたを褒めてくれたなら、それはあなたの努力が届いた証拠。
これからは「そんなことないです」ではなく、相手の見る目を信じて、「ありがとうございます!」と笑顔で受け取れる自分になりたいですね。
一歩ずつ、一緒に前を向いて進んでいきます。
クマ問題から考えた「生きること」の話
最近、クマによる被害や駆除のニュースを目にすることが増えました。
人間から見れば危険な存在です。早急に駆除して欲しいと思います。が。確かに熊からすると生きていけないから生きるために移動して来ただけ。とも少しは思うところもあります。ただただ生きようとしてる。意味はそれくらいでしょう。我々の同胞を殺しまくるあいつら人間が憎いから狙ってるわけではないと思います。
食べる。
眠る。
子を育てる。
ただ生きている。
ところが人間は、身を守ることはもちろん、生活のクオリティを求めるとも思います。それを破壊する事象は是正しなければならない。自然淘汰では済まされない。
文明には意味がある。それを壊すものは是正しなければならない。
そんなこんなを考えていると何故か社会のため、自分のため、はたまた幸福とは?などとわけのわからない思考に陥りました。
「私は何のために生きるのか」
「人生に意味はあるのか」
「私は社会にどんな価値を生み出せるのか」
数学に意味はあるのか
その流れで思い出したのが、数学者・思想家の岡潔氏の言葉です。
「数学なんかして人類にどんな利益があるのか」
そう問われたとき、岡潔氏は、
「スミレはただスミレのように咲けばよい」
という趣旨のことを語っています。
スミレは利益のために咲いているわけではありません。
ただスミレとして咲いている。
人間も本来はそうなのかもしれません。
意味を求めすぎる苦しさ
現代社会では、
役に立つこと。
成果を出すこと。
お金を稼ぐこと。
そうしたことに価値が置かれがちです。
しかし、それだけでは苦しくなることがあります。
生きる意味が見つからない。
社会の役に立てていない気がする。
何者にもなれていない。
そんな不安に襲われることがあります。
でも自然界を見れば、
鳥も花も木も、
意味を証明するために存在しているわけではありません。
ただ存在している。
ただ生きている。
禅が示すもの
この話は最終的に禅にも通じているようにも思います。
答えを探し続けるのではなく、
ただ座る。
ただ生きる。
ただ今日を味わう。
禅には「只管打坐(しかんたざ)」という言葉があります。
ただひたすら坐る。
意味を探すことよりも、今ここに在ること。
それが本質なのかもしれません。
私なりの結論
結局のところ、
生きる意味があるから生きるのではなく、
生きているから意味が生まれる。
そんな気がしています。
クマはクマとして生きる。
そして必要とあれば駆除する。
これも生存するための自然な流れ。
スミレはスミレとして咲く。
人間もまた、人間として今日を生きればよい。
もし今、幸せを感じながら暮らせているなら、それで十分なのかもしれません。
と答えの出ない問いを抱えながら、それでも今日を楽しみ、美味しいものを食べ、好きな人と笑って暮らせるなら、それもまた十分に幸せな人生なのだと思う。
そんなことを感じた今朝でした。
さあ、楽しい1日にするぞ!っと。

